「まじめ」たれ

自分について考えることに疲れ、「どこかに逃げ道があるのではないか」と弱腰になることもありました。
でもそれはダメで、やはり、悩み、苦しみながら考えつづけるしかないようです。
いま、こうした個人の心の問題を「脳」や「スピリチュアル」というもので解決しようとしたり、わざと鈍感になってみたり、周囲に心の壁を作ってしのごうとしたりする傾向があるようですが、それではやはり解決にならないのではないかと思います。
時代はすでに中途半端を許さないところまできています。
だから、中途半端な深刻さも中途半端な楽観論も廃さなければいけません。
そして、中途半端なところで悩むことをやめると、自我を打ち立てることも、他者を受け入れることも、どちらもできなくなってしまうと思います。
他者との相互承認の中でしか自我は成立しないと私は言いましたが、では、他者とつながりたい、きちんと認め合いたいと思うとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。
わたしには「正解はこれだ」と言う力はありません。が、『心』の中で、漱石は一つ、とても大きな事を教えてくれています。
それは「まじめ」ということです。
「まじめ」というのは、「中途半端」の対極にある言葉ではないでしょうか。
先生の秘密を知ろうとする「私」に、先生はこう尋ねます。

「『あなたは本当に真面目なんですか』と先生が念を押した。『私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。然(しか)し何(ど)うもあなた丈(だけ)は疑りたくない。あなたは疑るには余りに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたは其(その)たった一人になれますか。なって呉(く)れますか。あなたは腹の底からまじめですか』」

いまでは「まじめ」という言葉はあまりいい意味では使われませんし、「まじめだね」と言われるとからかわれているような気分になります。
でも、私はこの言葉が好きですし、とても漱石らしいと思います。
すべてが表面的に浮動するような現代社会に楔(くさび)を打ちこむような潔さがあると思います。

           -----姜 尚中著「悩む力」-----

「まじめにしろ」と言われると、「やっている」と言い返したくなりますが、「中途半端で投げてはだめなんだ」と言われると、心にスッと落ち自分の言動を省みようという気持ちになります

まじめに悩み、まじめに自分や周囲の人と向き合うことが、悩みから開放される近道だと言っているように感じました

                                     オーチマン